しゅ・ら・ば(滝川クリステルの「お・も・て・な・し」風)
私には誇れるものは何もありません。
特技も特にないし、なんと言っても、ものすごくおっちょこちょいです。
先日、教会の通訳の帰りに神宮球場へ行き、試合の途中からでしたが、母校の立教戦を同期の応援団や野球部の友だちと見ました。点が入って興奮して一歩踏み出したら、そこに何もなく、スタンドから落ちました(°□°;)
数段落ちて、ちょっと肉付きの良いお客さんにつかまって、なんとか立ち上がりました(^_^;)今でも左膝に、スゴいアザが残っています(∋_∈)
失敗は数知れないほどあります。
手話通訳士をしていますが、手話が上手とは言えず、まだまだ発展途上です。
手話表現の力も読み取りの力も、もっと磨かなきゃと思っています。
でもただ一つ、胸を張って言えるのは、
「数々の修羅場を乗り越えて、今日までやってきた」
ということです。
ホームページのトップに、教会でお話した「証(あかし)」を載せさせていただきました。今までの半生をまとめて書いたものですが、でもあれは、「20分で話してほしい」という依頼でしたので、書ききれないことがいっぱいありました。
例えば、私のいとこは偏差値の高い大学に片っ端から合格して、卒業後航空会社に入り、航空会社のカレンダーにも出ました。でもその後、躁鬱(そううつ)病を発症しました。
私は彼女が心配で病院に連れて行き治療を受けさせていましたが、ある日私に遺書を残して自殺を図ってしまいました。
幸い傷が浅く、薬も致死量に至らなかったので、私はいとこをすぐに精神科の病院に入院させました。
その際、いとこの支払いが滞っていた光熱費などを、いとこの父親(つまり私のおじ)に払ってもらいました。
おじは、妻子を捨てて愛人のもとで40年も暮らしていたので、私はほとんど会ったことがありません。
いとこは私に遺書を送ると同時におじにも遺書を送っていて、光熱費などの支払いを頼んでいたのです。
閉鎖病棟に入院したいとこに頼まれ、私はおじの家に電話しました。
実は私がおじの家に電話するのは2度目でした。
その数週間前に、いとこが躁鬱(そううつ)病で働けないとわかったとき、初めておじに電話をしたんです。
いくら妻子を捨てて愛人のもとに走ったとはいえ、たった一人の娘が躁鬱(そううつ)病になったので援助してあげてください、と頼んだのです。
そのときのおじの答えは、
「なんで俺が面倒を見なければならないんだ! そんなに心配なら、隆子ちゃんが勝手に面倒みりゃいいだろう!」
そう言って電話を切られました。
私は外で電話をしていたのですが、悔しくて、人目をはばからず泣きました。
それから数週間後、いくら閉鎖病棟にいるいとこの頼みとはいえ、あんなおじのところに電話しなければならないのはイヤでしたが仕方がありません。
思い切って電話をすると、愛人が出て、いとこの光熱費を支払うことでさんざん罵倒されました。
普段の私を知っている方なら、私がイライラ・カリカリしない性格なのはご存知だと思います。
簡単には怒りませんが、その代わり本当に怒ったときは、ものすごく恐いです。
しばらくは我慢して聞いていましたが、我慢できなくなりました。
「あなたは愛人のクセに、なんで偉そうなことが言えるんですか!?」
と一喝(いっかつ)しました。
おじが愛人を作ったことで、おばや祖母(おばと私の母にとっての母、つまり私の大好きな祖母の依於子です)がどんなに苦労してきたか、幼い頃からずーっと見てきたからです。
私がおじの愛人を一喝したことで、母は
「溜飲(りゅういん)が下がった!」
と大喜びしました。
母もおじの愛人問題で心を痛めてきたからです。
半沢直樹ばりの、怒涛の反撃をしました(o^∀^o)
あれから何年たつかなぁ…
今、考えてみれば、私がおじの愛人と対決するなんてヘンな感じがしますけれど、私のことを娘のように可愛がってくれたおばの代わりに、絶対言ってやりたかったんです。
父親が酒乱でDV、母親はそれがもとで鬱(うつ)病、私はPTSD(心的外傷性ストレス障害)。
おじは妻子を捨てて愛人のもとで40年以上暮らし、おばの葬儀にも来ませんでした。
そして、いとこは躁鬱(そううつ)病。
なぜか私がおじの愛人と対決…
と、本当に本当にうちは大変でした(>_<) さらに現在私には、アスペルガー症候群の夫がいます。 本当に神様はなんで、こんなに試練をお与えになるのがお好きなんでしょう!? でも、私は逃げるのはイヤだから、これからも神様に祈りつつ、決して下を向かず、前を向いていきたいと思っています。 天国の博子ちゃん(母のことです)、見ててね(*^o^*)
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