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教会の百周年記念礼拝の手話通訳

私はクリスチャンです。私の母方のひいひいおばあさんは、幕末の嘉永元年の生まれですが、敬虔なクリスチャンで、横浜の教会で英語の通訳をしていました。その長男にあたる私のひいおじいさん、私の祖母、母、私…と続いて、私で5代目になります。

ひいひいおばあさんは、明治の時代に教会で英語の通訳をしていました。子育てしながら、英語を学んで身につけたそうです。そして私が平成の今、教会で手話通訳をしているというのは、不思議なつながりを感じます。

さて、私は2004年10月から、教会で礼拝の手話通訳をさせていただいています。当時は、まだ地域の手話講習会の通訳コースに通う受講生でしたから、まだまだへタッピだったと思います(>_<) 教会の礼拝のお説教の手話通訳は、事前に原稿がないので、いつも出たとこ勝負です!おかげさまで、ずいぶん鍛えられました(^_^;) へタッピな手話通訳で、ずいぶんご迷惑をおかけしたことと思いますが、教会の聴覚障害者の女性はいつも優しく見守ってくださいました。もちろん、間違えた時には直してくださいます。でも、不必要にプレッシャーを与えたり、間違えたときに怒ることはないので、おかげさまで萎縮せずにここまでこられました。感謝です(*^o^*) 「手話通訳は楽しい!」と心から思えるのは、教会で手話通訳として育てていただいた面が、たぶんにあると思います。 最初の頃は、ずいぶん失敗もしました。賛美歌の「あめなる喜び」を「雨」と表してしまったり(本当は「天」です(^_^;))。 牧師さんが 「今日は小学生も一緒の礼拝で、混雑していてすみません」とおっしゃったのに、 「小学生も一緒の礼拝で、『気色悪くて』すみません」 と表してしまったり…(^_^;) そんな私が、先週末に教会の百周年記念礼拝の手話通訳を担当させていただきました(*^o^*) 教会の手話通訳で心がけていることが一つあります。キリスト教は、他の宗教とは違って「修行をしないと救われない」とか「このツボを買わないと、不幸になる」なんてことは一切ありません。弱く、罪深く、失敗だらけの自分でも、ありのままの自分を神様は愛してくださると教えています。 ですから、そういうメッセージを伝えるためにも、いつも晴れやかな顔で手話通訳をしようと思っています(*^o^*) ゴスペルを歌う人で、暗い顔している人って、いませんよね! 間違っても、死んだ魚のような目はしないように(苦笑)、と思っています

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