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病院通訳で叔母の人生を思う

今日は朝7時50分に家を出て、大学病院の手話通訳をしました。終わったのは午後2時50分。
お昼ご飯のパスタを食べたのは、午後3時半!

思いっきり働いた感じがします。

通訳対象者さんは、人の好き嫌いがハッキリしたおばあちゃま。
大変な面もありますが、実はこの方、2007年8月に亡くなって遺体で発見された、私の叔母に似ている面があるんです。

叔母は高校時代に、クラス全員の前で担任の先生から鼻の形の悪さを指摘され、それからすっかりコンプレックスの固まりになってしまいました(;_;)

結婚後10年ほどして夫(私の叔父に当たります)が愛人を作って家を出ました。
以来亡くなるまでの40年間別居したまま。一人娘とも絶縁状態でした。

私は叔母が心配だったので、入院した時は1日おきに母と病院に通い、老人ホームの入居手続きをしたりしました。
でも肝心の最期の時には何もしてあげられませんでした。
武蔵野警察署へ遺体を引き取りに行ったとき、刑事さんから渡された身の回りの品の中に、何かあった時の緊急連絡先として、まず1番目に「鈴木隆子(めい)」そして私の住所と電話番号が、2番目に母のことが書いてありました。
叔母の遺体が発見されたところに、その紙があったと刑事さんから聞きました。
最期まで私のことを、1番頼りにしてくれていた叔母。
それなのに、最期は何もしてあげられなかったことを思い、自責の念にかられます。
だから、叔母に似ているところのあるろうのおばあちゃまの病院に付き添い、手話通訳をすることで、叔母への悔いが少し軽くなるような気がします。

叔母の人生って何だったんだろう?叔母の幸せって何だったんだろう?
私には答えはわかりません。

夫も娘も誰一人引き取ろうとしない叔母の遺骨は、今私の家の母の部屋に安置されています。

生前、お医者さまや福祉関係の方に「安楽死させてほしい」と言っていた叔母。

母の部屋に安置されて、初めて充足感を得ているのかもしれません。

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